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私と岩波ホール

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2022年2月18日

平野共余子(映画研究者)

新年(2022年)になって程なく、衝撃的ニュースが入って来た。ミニシアターの先駆けとして親しまれてきた岩波ホールが、54年の歴史を閉じ本年7月末で閉館とある。世界65カ国、271本の映画を上映してきたが、コロナ禍で運営が困難になったそうだ。(https://www.iwanami-hall.com/topics/news/5024

私は学生時代から約半世紀、岩波ホールの映画上映を当たり前のように過ごしてきたので、岩波ホールのない生活が想像できない。世界各国の新作や古典、また日本のドキュメンタリーやインデペンデント映画を通じて私を観客として育ててくれた岩波ホールである。

自分が実際に映画上映に関わる体験をしてみて、上映活動を半世紀にもわたって続けることがいかに大変な事業であるかが、骨身にしみてわかった。ニューヨークで映画上映の仕事をしていたときには、上映を通じて文化活動に関わる喜びを感じるとともに、困難なことも日常茶飯事で、へなちょこの私は毎週のように、もう辞めたいと思っていたからだ。それを54年も続けるとは、何とか18年の映画上映をしたに過ぎない私から見れば、ただただ、驚嘆である。

岩波ホールを長らく主宰していた偉大な上映者、高野悦子(1929~2013)については書かれたものが多く、ご本人の著書も多数あるのでここでは繰り返さないが、私の岩波ホールとの個人的な思いを綴りたい。

東欧映画への誘い

岩波ホールといえば真っ先に浮かぶのが、1977年、私が大学院生のときに見たハンガリーのミクローシュ・ヤンチョー監督の『密告の砦』(1966)である。高野悦子の先輩で協力者でもある映画上映の先駆者、川喜多かしこ(1908~1993)の長女、川喜多和子(1940~1993)が柴田駿(1940~2019)と始めたフランス映画社が配給した作品で、ハプスブルグ王朝に対する農民蜂起のグループを描くスリラーである。モノクロの画面に広がる心理的緊張感の連続は、圧政に対する抵抗者たちの精神とともに忘れがたいものであった。 それまでも私は東京国立近代美術館フィルムセンター(現国立映画アーカイブ)の上映プログラムの恩恵を受けてきた。そこで見たフランス、イタリア、ポーランド、ブルガリアなどの映画特集で、私は、遠い国の歴史や登場人物の生き方に目を開かれ、華麗な映画表現に目を奪われた。私のハンガリー映画への興味は1974年のフィルムセンターでのハンガリー映画特集に始まっていたが、『密告の砦』は強烈に私の心に刺さった。本作は海外から見ても永遠の名作のひとつであるので、昨年(2021年)のニューヨーク映画祭の回顧部門でも修復版が上映されていた。

写真提供:New York Film Festival

こうして東欧に誘われた私は、1976年秋から翌年春まで、ユーゴスラビア(以下、ユーゴ)政府給費留学生としてベオグラード大学大学院の映画学科で学ぶことになった。私の指導教官のペタル・ヴォルク教授は、ユーゴ映画を代表する約25本を見る機会を作ってくださった。ビデオもDVDもない時代なので、35ミリフィルムでの上映で、場所はベオグラード郊外の映画撮影スタジオ。友だちも連れて来ていいよと言われたのだが、皆忙しくて来ることができず、ユーゴが誇るパルチザン戦を描く様々な作品から、当時のユーゴでは政治的過激さで上映禁止となっていたドュシャン・マカヴェイエフの前衛的現代劇まで、私一人で見せていただくことになった。

このときの貴重な体験から、私は、日本であまり馴染みのないユーゴ映画を紹介する使命を感じ、2010年代から、ユーゴ研究に携わる友人や東京在住の旧ユーゴ圏(ユーゴという国自体がその後解体して、現在7つの国に分かれている)出身の友人たちと、毎年夏に旧ユーゴ地区の映画上映会を東京の大学キャンパスで開催している。

アンジェイ・ワイダ監督との交流、中・東欧映画の上映

岩波ホールは、1984年にユーゴ映画『歌っているのはだれ?』(1980/スロボダン・シヤン監督)、1986年に『パパは、出張中!』(1985/エミール・クストリッツァ監督)を上映した。前者は、1939年の第二次世界大戦勃発時、バスに乗り合わせた人々が繰り広げるちょっとトボけたペースの風刺的群像劇である。後者は、スターリン時代に不当な逮捕をされて投獄された父のことを「出張中」であると母から説明されていた子どもたちを、ユーモアとペーソスをブレンドして描くものである。私はこのときまでシヤン監督を知らなかったが、のちに『アンダーグラウンド』(1995)で世界的に著名な監督となるクストリッツァを、『パパは、出張中!』が上映されたニューヨーク映画祭でインタビューしていた。そんなこともあって、この両作品の解説パンフレットに参加させていただくことになった。

ユーゴ解体後の名作も、岩波ホールは度々上映している。1998年には、ボスニア紛争と戦後のトラウマを描くボスニア=ヘルツェゴヴィナの作品『パーフェクトサークル』(1997/アデミル・ケノヴィッチ監督)、2007年には『サラエボの花』(2006/ヤスミラ・ジュバニッチ監督)、2011年『サラエボ、希望の街角』(2010/同監督)、そして最近では、社会に残る女性差別問題に斬り込んだ北マケドニアの『ペトルーニャに祝福を』(2019/テオナ・ストウルガル・ミテツスカ監督)を2021年に上映している。

アフリカ、アジア、アラブ、中南米など第三世界の映画も広範囲にわたって上映してきた岩波ホールであるが、中・東欧映画、取りわけポーランドのアンジェイ・ワイダ監督作品を数多く上映して、監督との深い関係で知られている。そのほかにも、ブルガリアの『炎のマリア』(1972/メトード・アンドーノフ監督、上映は1976年)、ルーマニアの『炎の一族』(1975/ダン・ピツア監督、上映は1978年)、チェコの『この素晴らしき世界』(2000/ヤン・フジェベイク監督、上映は2002年)など、日本で馴染みのない中・東欧の映画を数多く上映して、この地域の映画ファンを増やしてきた。それによって日本の観客の文化生活がいかに豊かなものになったかは計り知れない。

先駆的な上映運動

1970年代から、サタジット・レイ、ルキノ・ヴイスコンテイなどの世界史に残る映画を紹介し興行的成功に導いてきた岩波ホールの上映活動は、観客にとって貴重な存在であった。当時学生であった私は、アンドレイ・タルコフスキーの『惑星ソラリス』(1977)、テオ・アンゲロプロスの『旅芸人の記録』(1975)、エルマンノ・オルミの『木靴の樹』(1978)、カール・ドライヤーの『奇跡』(1955)など、映画史の中に燦然と輝く名作を次から次に岩波ホールで見て(その多くがフランス映画社配給)、映画がいかに豊穣な芸術表現であるのかに感嘆し、圧倒されていた。

そのおかげで、1979年秋にニューヨーク大学大学院に留学するためにニューヨークへ来たときには、大学のアメリカ人の同級生の中の誰よりも世界の名画に精通していたと自負している。ヤンチョーやオルミを知っている学生は私の周囲にはいなかったし、当時の豊かなニューヨークの映画文化の中でも、アンゲロプロス、タルコフスキーなどは、まだごく一部の狂信的映画ファンにしか知られておらず、大方の話題にもなっていなかった。パリの状況はわからないが、ニューヨークは当時も、世界で最も映画文化が盛んな場所のひとつであったと思う。岩波ホールは映画上映活動における世界的先駆者で、その作品選定は世界に誇る洗練度であったのだ。

世界に先駆けてジョージア映画を紹介

2014年から2015年にかけて、ニューヨーク近代美術館(MoMA)で、前代未聞の規模の二部構成のジョージア映画特集が上映された。この特集は、私のニューヨーク大学大学院の同級生で、デンマーク出身の女性映画キューレター、ユッテ・イェンセンが7年かけて世界中から集めた貴重なジョージア(旧称・グルジア)映画を一挙に見せた圧巻なイベントであり、ユッテの遺作事業となった。それらの作品で展開する批判精神や自由奔放な想像力に、私は文字通り「腰が抜ける」ほどの衝撃を受けた。 しかし、岩波ホールはそうしたジョージア映画をとっくに上映していたのだ。1978年に上映した『ピロスマニ』(1969/ギオルギ・シェンゲラヤ監督)を皮切りに、1982年『落葉』(1966/オタル・イオセリアーニ監督)、2008年『懺悔』(1984/テンギス・アブラジェ監督)を上映している。

(左)『ピロスマニ』(1969/ギオルギ・シェンゲラヤ)
(右)『落葉』(1966/オタル・イオセリアーニ)

現在(2022年1月29日~2月25日)も、古典から新作までを紹介する大規模なジョージア映画特集「ジョージア映画祭2022 コーカサスからの風」が行われている。ジョージア映画に特別な思い入れがある元スタッフ、はらだたけひで(原田健秀)さんの熱意の賜物である。

ジョージ映画創成期を代表する『エリソ』(1928/ニコロズ・シェンゲラヤ監督)は、19世紀のロシア帝国下にある山奥のイスラム教徒のチェチェン人の村を舞台にした映画で、突然皇帝からトルコへの移住を命じられ、先祖伝来の土地を離れるわけにはいかないと抵抗する村人たちが描かれている。抵抗空しく、皇帝の権力に屈せざるを得ず、村人たちは重い足をひきずって歩き始めるが、村長の娘エリソはなんとかそれを食い止めようと、キリスト教徒の恋人と協力しながら、野を越え、丘を越えて奔走する。サイレント映画なので、台詞に頼らない人物たちの動作は大きいが、野外で始まる村人たちの踊りの場面は情緒がほとばしり、迫力に満ちている。それとともに、民族の哀しみの歴史が心に染み入る。社会の表面になかなか出てこない弱者の言葉と感情を伝えることこそ、映画の使命のひとつではないかとあらためて感じさせられた。

『エリソ』(1928/ニコロズ・シェンゲラヤ監督)

文化をおこす

2012年、高野悦子さんが「映画の日特別功労賞」を受賞されたとき、たまたま東京にいた私はその祝賀会に出席させていただいた。その会は、舞台の上の女声合唱団の唱歌で始まった。「雲間をいずる 朝日かげ 匂うがごとく 新しく ここに生まれて 日本の 文化をおこす 使命あり 女子大学のその名こそ 永久に我等が ほこりなれ」という、高野さん出身の日本女子大学の校歌で、同大学の附属中学、高校在学中に式典などの機会に歌っていた私も自然に声が出てしまった。舞台で歌っていたのは日本女子大学コーラス部のOGの方々で、指揮は高野さんの下で長く務めた同大学コーラス部OGの大竹洋子さんだった。この校歌の作詞は古田夏子、作曲は一宮道子で、一宮先生は私の小学校の音楽担当であった。「ここに生まれて 日本の 文化をおこす 使命あり」とは、何てすごい歌詞なの、と祝賀会に出席されていた女優の香川京子さんがおっしゃっていたと大竹さんから伺ったが、私自身、中高校生のときに、ずいぶんと勇ましい歌詞だなあと思って歌っていたことを想い出した。母校を誇りにしていた高野さんは、この歌詞を当然のことと受けとめて、何事でもないように実践した。岩波ホールは日本の文化をおこす使命を達成し、世界と日本を繋げたのである。

(写真提供:岩波ホール)

最後に、高野さんと私の不思議なご縁について言及したい。映画監督になろうとパリの映画大学に留学された高野さんは1962年に帰国後、衣笠貞之助監督の助手を経て、テレビ・ドラマを演出している。1964年に放映された『巴里に死す』(フジテレビ)が高野さん脚本・演出だったとは、当時小学校6年生だった私は知る由もなかった。しかし、なぜ私がこのようにおよそ子ども向けとは思えないドラマを見たかというと、本作の原作者、芹沢光治良さんのお孫さんで、後にバイオリニストとしてパリに住むようになった野沢尚子さんと私は、日本女子大学附属豊明小学校で6年間同じクラスで親友だったからである。徐々に正気を失ってネグリジェのままあらぬことを呟くヒロインを演ずる香川京子さんの姿が、モノクロ画面でしっかりと私の眼に焼き付いている。

※この原稿は、新宿書房のオンラインマガジン「百人社通信」に連載中の平野共余子さんのコラム「アンコウになって闇から帰還 平野共余子のNY映画通信(47)」(2022/1/28)を一部修正の上、転載させていただいたものです。

平野共余子(ひらのきょうこ)

東京生まれ。1979年よりニューヨーク大学映画研究科に留学。博士論文が92年に「Mr. Smith Goes To Tokyo: Japanese Cinema Under the American Occupation 1945-1952」として出版され、日本語でも98年に『天皇と接吻 アメリカ占領下の日本映画検閲』(草思社)として出版された。86~2004年のニューヨークのジャパン・ソサエティー映画部門での体験は、06年に『マンハッタンのKUROSAWA 英語の字幕版はありますか?』(清流出版)となる。1976~77年、旧ユーゴのベオグラード大学大学院でユーゴ映画史を専攻。ほかに『日本の映画史 10のテーマ』(くろしお出版、2014年)がある。