上映作品『クローズ・アップ』(アッバス・キアロスタミ/1990)
レクチャー:深田晃司(映画監督)
連続講座「現代アートハウス入門 ネオクラシックをめぐる七夜 Vol.2」(1)
2021年12月11日~17日、全国24のアートハウス(ミニシアター)で同時開催された連続講座「現代アートハウス入門 ネオクラシックをめぐる七夜 Vol.2」。
監督や脚本家、製作者、編集者等、多彩な講師陣による7日間のトークの記録を連載します。
連続講座「現代アートハウス入門 ネオクラシックをめぐる七夜 Vol.2」
第1夜 2021年12月11日(土)
連続講座「現代アートハウス入門 ネオクラシックをめぐる七夜 Vol.2」第1夜は、アッバス・キアロスタミ監督の『クローズ・アップ』を上映。講師は、映画監督の深田晃司さん。『淵に立つ』や、最新作『本気のしるし 劇場版』が国内外で高く評価され、コロナ禍では濱口竜介監督とともに「ミニシアター・エイド基金」プロジェクトを立ち上げ、全国の小規模劇場への支援を呼びかけました。『クローズ・アップ』を「奇跡のような映画」と称する深田さんに、本作の魅力を余すところなく語っていただきました。
『クローズ・アップ』は奇跡的な映画
深田 『クローズ・アップ』は本当に好きな映画で、初めて観たのは18歳から20歳あたりだと思います。特にラストシーンは、なんでこんなシーンが撮れるんだ、本当に奇跡のような映画だと昔も今も思いました。自分は19歳で映画学校に入ったので、当時は本作にあるような映画の世界も全然知らず、どちらかというとサブジアンの立場に近かったからこそ、すごく感動したのかもしれません。
いわゆる職業俳優ではなく一般の人を起用して、ものすごいリアリティを引き出すキアロスタミの特徴的な手法は本作でも貫かれています。でも、一般の人を使えばリアルになるかと言うと、そんなことはないんですよね。一般の人でもカメラの前に立てば緊張するし、演技をしてしまう。でも本作は、演技と演技じゃないところの非常に薄い皮膜を狙っていて、しかも本当に納得できるリアリティで差し出されている。それは『友だちのうちはどこ?』でも『そして人生はつづく』でも徹底しています。
自分が講師を務めている映画美学校のアクターズコースでは、3本の映画の抜粋を流して、映画史100年における演技の変化を見て演技について考える授業をやっています。そこでよく使う一本が『クローズ・アップ』です。授業では、まずハリウッドのある古典映画、次にロベール・ブレッソンの『田舎司祭の日記』の冒頭5分を観ます。そこには大体20年ぐらいの差がありますが、両方ともモノクロで、今の私たちから見たらともに古い映画です。でも、そこに差し出されている演技の質はまったく違います。作品、作家によって求められる演技の質は変わるので、演技の良し悪しは簡単には言えないですが、前者は19世紀的な演技で、後者は20世紀的な演技、いわば現代の演技だと説明しています。
「無意識」の発見/客観的な歴史は存在しない
深田 では、19世紀と20世紀を分けるものは何なのか。自分がよく言うのは「無意識」の発見です。20世紀に無意識の発見という歴史的な出来事が起こったために、人間による人間の見方が変わり、それによって演技の質も変わりました。もちろん、19世紀や18世紀の人間にも無意識自体はあるはずですが、フロイトやユングといった学者によって無意識という概念が発見されたのが20世紀なんです。
無意識という概念が発見される前の人間の人間に対するイメージって、私は私のことをコントロールできるというものだと思うんですよね。それが無意識の発見によって覆された。自分が自分のことを完全にコントロールできるとは限らないし、私たちは自分がコントロールしえない無意識の領域に常に影響を受けながら行動している。しかも、無意識的な領域は自分の自由意志ではなく環境によってどんどん作られていきます。
私が最初にこの考え方を知ったのは、大学で史学を勉強していたときです。歴史学者のE・H・カーによる『歴史とは何か』という歴史学の入門書に、「客観的な歴史は存在しない」といったことが書いてありました。私たちは、不動の事実として存在している大きな歴史を、いかに正確に記すかが歴史学だと思っていますが、歴史は歴史家が作るものであって、歴史家は人間です。ここで無意識が大事になるわけですが、歴史家がどんなに客観的に歴史を記そうとしても、歴史家もまた、自分自身の属性や無意識から逃げられないということが無意識の発見によって明らかになりました。その人のジェンダーや、どこの国に生まれて、どういった人生を歩んできたか。そうした領域から逃げることができない以上、あらゆる歴史は、歴史家の主観を通したものであると書いています。これは歴史についての話ですが、創作にも言えることだと思っています。
授業の話に戻りますと、ハリウッドの古典映画とブレッソンの映画で何が違うかと言うと、後者の演技は徹底的に説明を削ぎ落としているんです。ある種の演技は、自分がどういうキャラクターで、今どういう感情なのかを俳優が身体でアウトプットすることをよしとしますが、無意識の発見で分かったように、私たちはそんなに自分のことをコントロールできていません。自分はこういう性格だからこういうふうに振る舞おうと思っている人はあまりいなくて、いたとしても「そう見られたくて演じている人」に見えてしまうでしょう。私たちの振る舞いは、すべて他者との関係性のなかで、コントロールし得ない不完全なものとして揺らいでいます。
職業俳優の存在が揺らぐ作品
深田 しかし、経験ある俳優であればあるほど、ときに脚本から想定されるキャラクターを演じてしまいます。これは、必ずしも悪いとは言えなくて、観客にとってはすごく観やすいときもある。観ているだけでキャラクターがつかめるし感情が分かるから、ある種のエンターテインメント作品には向いている手法であるかもしれない。私は勝手にこうした演技を「19世紀的」と言っていますが、古い映画だから19世紀的なんじゃなくて、現代の映画やドラマでも19世紀的な演技は山程あると思っています。
対して、無意識の領域が意識されたブレッソンの作品は、徹底的に説明を排除することで、観客が「この人は何を思っているんだろう」と考えます。ブレッソンは新人の俳優を徹底的に訓練して説明を削ぎ落とす「モデル」という手法を用いました。ブレッソンもキアロスタミも「スーパーリアリズム」であるという点で共通していますが、ブレッソンは俳優からノイズを削ぎ落として無意識の領域に到達しようとしているのに対し、キアロスタミの人物はものすごく適切な量のノイズにあふれていると言えます。
ハリウッドの古典、ブレッソンと来て最後に見せるのが本作の冒頭5分ですが、冒頭からしてすごいですよね。記者がタクシーの運転手と延々おしゃべりしながら現場に向かう場面ですが、あの記者もよく動いています。表情もころころ変わるし身振り手振りもある。大抵、経験のある俳優は身振り手振りを説明のために使ってしまうんですね。例えば「あっちに行って」と言うときに、普段はそれほど方向を指差したりしませんが、演技になると指差し率が跳ね上がります。身体をコントロールして説明しようとしてしまう。それに対し、キアロスタミの俳優たちの動きたるや、本当に「マジックリアリズム」というかスーパーナチュラルです。
冒頭の車中のシーンは本人たちによる再現シーンでもあるわけですが、目の前にカメラがある、ものすごくフィクショナルな状況にも関わらず、あのとてつもない自然さで演じることができている。フロントミラーに車のアクセサリーがぶらさがっていて、車の揺れに従って自然の摂理で揺れていますが、それと同じレベルで俳優たちがナチュラルです。これは本当に驚くべきことで、職業俳優に役を演じてもらってこの自然さに到達するのは容易ではありません。以前、親しい俳優たちとよく映画鑑賞会をやっていたんですが、本作を観た俳優のひとりが「自分が若い時に『クローズ・アップ』を観ていたら俳優なんてやめていた」と言うぐらい、職業俳優の人たちに「職業俳優ってなんだろう」と考えさせてしまう、非常に罪深い作品でもあります。
職業俳優に支えられる演劇と、一回性の高い映画
深田 この話は、映画の魅力的でありながら残酷な一面を示しているとも思っています。普通、映画よりも演劇の方が、ある意味「ナマモノ」だから一回性に満ちていると思われるかもしれませんが、実は演劇こそ、ある程度訓練された俳優でないと成り立たない世界です。なぜなら、大抵演劇は1回だけじゃなく10回、20回と公演があって、10回、20回とある程度同じことができないと成り立たない表現だからです。なので、演劇はきちんと訓練された職業俳優の技術によって支えられている表現と言えます。一方、映画は10回やって9回まったくダメな演技でも、1回ホームランのような演技ができればOKという面があるので、実は映画のほうが一回性の生々しい感覚を撮りやすいとも言えます。
そうすると、カメラにとって必要なのは魅力的な被写体であって、被写体が職業俳優だろうが一般人だろうが、もしくは人間でなくたっていいかもしれない。木から落ちる木の葉や、子どもや動物が魅力的なのは、次の瞬間にどう動くか想像がつかない非常に生々しい存在だからです。多くの俳優はどこか予見された動き、キャラクターや感情に沿った動きになってしまいますが、本作に出てくる人たちは次の瞬間どういう表情をするかわからないからドキドキしながら観られますよね。キアロスタミがサブジアンに問いかけて、わずか5秒の沈黙が生まれる。この沈黙の後、彼が何を言うのか私たちはまったく想像がつかないわけです。こういう芝居を俳優が演技でやるのは非常に難しいことです。映画は必ずしも職業俳優ではなくていいという残酷な事実があることを、キアロスタミの映画を観るとつくづく感じます。
質疑応答
──当事者たちの再現が素晴らしくて素人とは思えなかったです。なぜそれが可能だったと思いますか
…長野相生座・ロキシーより
深田 これはキアロスタミがインタビューで語っているし、DVDの解説にも書いてあったので知っている人も多いと思いますが、裁判シーンは、成り立ちとしてはドキュメンタリーです。キアロスタミが別の作品の準備をしていたときに、サブジアンの事件の記事が出て、これは面白いと言ってすぐにプロデューサーを説得して刑務所に撮影スタッフを集めさせて、サブジアンのインタビュー撮影からはじめたそうです。裁判は、本来だったら1時間で終わるところ、撮影が入ったことで10時間かかったらしいです。本当にえらい迷惑な話なんですが。
つまり、ここがキアロスタミにとっての「マジックリアリズム」で、そもそもドキュメンタリーとフィクションの境界が非常にあいまいなものであることを感じさせます。結局、カメラの前にあるものが映っている点ではどちらも同じです。たとえドキュメンタリーであっても、人間は無意識の外部の環境によって動かされているかもしれないと考えれば考えるほど、両者の境目はなくなっていきます。裁判シーンだって怪しくて、裁判の冒頭で「引きと寄りのカメラが2台ある」と言っていますが、どう考えてもその2台のみでは成り立たないカット割りになっています。だから裁判所のシーンは相当編集による「演出」が込められているはずですが、キアロスタミにとっては本質的な問題ではないという確信があるからこそ、本当に不思議なリアリティに立ち会うことができるわけです。
もうひとつ、日本のインディペンデントの映画人はつい勘違いしがちですが、こうした一見自然主義的な作品は、実はものすごく準備が必要なんです。『友だちのうちはどこ?』でも、子どもたちの恐ろしいほどリアルな演技が撮られていますが、それを撮るために1週間前から教室にカメラを置いて、フィルムを入れずに回すフリをしたというエピソードがあります。子どもたちをカメラに慣れさせるためです。
これも重要なのですが、キアロスタミの物語は俳優が──この場合、職業俳優ではなく一般の人ですが──非常に演じやすい構成だということです。つまり「よくできた脚本」なんですね。よくできた脚本・構成は、登場人物の内にあるかもしれない感情のようなものを想像できるようになっています。象徴的なのは逮捕される時の再現シーンで、皆すごく演技が上手い。サブジアンがもしかしたら自分の嘘がバレたんじゃないか、むしろ逮捕されることを8割方知っているような表情で座っていて、でも騙した家の息子の顔を見たら「リハーサルをしよう」と言ってしまうような、感情の揺れ動きを非常に上手く表現しています。それは、そこまでの構成の積み重ねによって、サブジアンがちょっと目線を動かすだけで、観客が彼の不安な気持ちを想像できるように構成されているからなんです。
これが「出来の悪い脚本」だと、お客さんが想像できるだけの構成になっていないので、その不足分を俳優が演技で補わなくてはいけなくなってしまいます。そのことを自分は「俳優の荷物が増える」という言い方をしていますが、つまり、不安だということを演技で説明しなくちゃいけないんです。すると、いわゆる過剰な演技になってしまって、下手な演技、説明的な演技に見えやすくなる。実はキアロスタミの作品は脚本、構成がとても上手いから、俳優が余計な荷物を背負わずに自然とカメラの前に立って動いているだけで、ものすごく複雑な感情がそこにあるように感じられるのだと思います。
ただ、気をつけなければいけないこともあって、キアロスタミ自身が作中で自己言及的に描いていますが、映画監督はものすごく権力を持っています。サブジアンも映画監督を名乗ったことで皆が尊敬してくれるのが気持ち良かったと言っていますよね。本作について、出演者が抗議しているという話は聞かないですが、監督が被害者の人たちに演じて下さいといえば演じてくれてしまうわけですから、監督の権力性やカメラのもつ暴力性は常に意識しなければいけないと思っています。シネフィルは信奉する監督の作品を全面肯定してしまいがちですが、かつての撮影のやり方が良かったのかどうかは、常に更新していかなければならないと思います。
──最後、音声が途切れ途切れなのは演出でしょうか。だとしたらその効果はなんだったのでしょうか
…シネマテークたかさきより
深田 これこそ謎というか、キアロスタミのことだから本当かどうかわかったもんじゃないという感じですよね。だけど、監督があれを良しとした意図は何となくわかるんですね。自分もかくありたいと思っているんですが、映画は観るお客さんとの想像力の駆け引きであってほしくて、キアロスタミはそれがべらぼうに上手い。サブジアンがちょっと黙り込むだけで、こちらはものすごく想像してしまう。それは、私たちが他者と接してるときと同じ距離感です。恋人だって家族だって、隣にいる人が今何を考えているのか探りながら、騙し騙し生きていますよね。
自分は演出において、いわゆる余白を作る作業をよくするんですが、例えば俳優さんに次のアクションまで5秒間間をあけてくださいと言って余白を作ることによって、お客さんに「次、どう動くんだろう。この人は何を考えて黙ってるんだろう」って想像させるんです。だから、あのぶつ切りの音声に何か効果があるとしたら、観客の想像力を喚起することもそのひとつじゃないでしょうか。そうした演出を狙ってわざと音声をぶつ切りにしたのか、本当にマイクの故障なのかわかりませんが、本作を観ているとどっちでもいいやという気持ちになりますね。
──七面鳥のカット、缶が転がっていくシーンについて話を聞きたいです
…フォーラム山形、KBCシネマより
深田 ここもキアロスタミの「マジックリアリズム」たるゆえんですね。この映画は七面鳥がいなくても成立しますが、単純に絵として面白いし、七面鳥が出てくることによってどこかドキュメンタリーのような生々しさを感じさせる効果もあります。エリック・ロメールが「セリフには二種類ある。必要な台詞と本当らしい台詞だ」と書いていますが、「必要な台詞」というのは、物語を進めるために俳優に言わせなくてはいけないもので、そこには脚本家の意図があるからどうしても作為的になってしまう。一方で「本当らしい台詞」は、物語を進めるためには必要ないけど、それによって世界のリアリティが増す。「本当らしい台詞」で「必要な台詞」を隠していくわけです。わざと噛むとか転ぶといったことも同じで、言わばノイズですよね。七面鳥や缶にもそういう効果があると思いました。あそこで缶を蹴っ飛ばす意味はまったくないし、ドライバーが車から出てきて花を拾って挿すまでの流れを全部カットしても映画は成立します。でも、それがあることによってあの世界の奥行きみたいなものが成立しています。何よりとても豊かです。坂を転がっていく缶も、たまたま撮ったドキュメンタリーのようにも見えるし、全体のメタファーのようにも見えて、観客それぞれどう見てもいいよというさじ加減が本当に絶妙です。
──職業俳優を起用していない監督で、おすすめの監督を教えてください
…ユーロスペースより
深田 ブレッソンもいわゆるベテランの俳優はほとんど使わなかったはずです。『バルタザールどこへ行く』のアンヌ・ヴィアゼムスキーも、その後俳優として活躍しているので、キアロスタミほど徹底していないと思いますが、経験値の高い職業俳優を使わなかった点ではブレッソンもその一人かなと思います。日本の作家で言えば、空族の富田克也監督ですよね。演技の上手い下手はお構いなしに一般の人を起用して、生の存在感を映し出しています。
──本作を通じて、日本映画に足りないと思う点があれば教えてください
…元町映画館より
深田 足りないもののひとつに「豊かさ」があると思います。先ほど話したように、子どものシーンを撮るのに一週間フィルムを回さないでカメラを置いておくのは豊かなんです。『友だちのうちはどこ?』では、いい感じの光を作るために校庭からグラウンドまでをビニールのドームで覆っていて、日本ではこんなに手の混んだ撮影はなかなかできません。だから、キアロスタミの素朴な作品は、大半の日本映画よりもはるかにお金がかかっているはずです。ダルデンヌ兄弟も、最近のある作品は3ヶ月リハーサルをやったという話を聞きましたが、日本にはそれだけの時間と手間ひまとお金をかける豊かさが欠けていると思います。しかも商業性の高い映画ではなく、いわゆるアート作品のためにそれだけの手間ひまをかけることができるかどうか。お金がなくて手間ひまだけかけると、それはそれで現場環境は悲惨なことになってしまいます。
──なぜタイトルが『クローズ・アップ』なのでしょうか
…多くの劇場より
深田 キアロスタミはインタビューで、クローズ・アップで人々を捉えると、その人物をよりよく理解できるようになる、サブジアン事件も離れたところから見れば詐欺師やインチキに見えるけど、近づいて見れば、つまりクローズ・アップで見ればそうではないことがわかる、だから本作を『クローズ・アップ』と名付けたのだと答えています。ただ、映画監督の端くれとして言いますが、映画監督の言うことはあまり信用しないほうがいいと思います(会場笑)。
映画監督もそんなにわかっていないんですよ。作ってみて初めて「こういうものができたんだ」と思うことが大半で、お客さんから感想を聞いて「こういう作品だったんだ」とわかることもあります。自分はよく映画監督と作品の関係を親子関係に例えて話しますが、親は子どもにとって一番近くにいる他人でしかない。親が子どものことをすべてわかっているかと言えばそんなことはありません。それと同じで、監督だから自分の作品のことを正確に話せるわけではないし、監督の言っていることが作品の正解ではないんです。
本作を観ていて思い出したのが、カール・テオドア・ドライヤーの『裁かるゝジャンヌ』で、あれもある意味、法廷劇ですよね、サイレント映画なのに法廷劇だから、表情のクローズ・アップでジャンヌ・ダルクの葛藤を見せているわけで、映画史においてクローズ・アップという表現がひとつの到達点に達した瞬間なのではないかと思います。本作もカメラの都合とか、裁判所が狭かったとかいろいろ理由はあるかもしれないですが、裁判所では他の再現シーンよりも5割増ぐらい寄りになっていて、その点においても『クローズ・アップ』というタイトルはふさわしいと思います。
これからのアートハウスについて
深田 『クローズ・アップ』を選んだのは、単に自分がスクリーンで観たかったからですが、やっぱり映画館で観るといいですね。これまで子どもの頃からさんざっぱらテレビで観てきた『風の谷のナウシカ』を今年初めてシネコンで観て、いままで自分が観ていたのはなんだったんだって思うぐらい感動したんですが、本作のような人間ドラマでも、映画館で観ると表情の彩度が違いますよね。テレビで映画を観るのも大好きですが、やはり映画館で観る体験は大切だなと思いますし、そこに「アートハウス」という名前がつけられているのはすごく意味深いことだと思います。
(取材・構成=木村奈緒)
『クローズ・アップ』
監督・脚本・編集:アッバス・キアロスタミ
1990年|イラン|99分|カラー
失業者のサブジアンはバスで隣り合わせた裕福そうな婦人から読んでいた本について聞かれ、なりゆきから自分が著者で映画監督のマフマルバフだとつい偽ってしまう。婦人の家に招かれた彼は、映画の話を情熱的に語るうちに、架空の映画製作の話にこの家族を巻き込み…。映画監督だと身分を偽り、詐欺で逮捕された青年の実話をもとに、再現映像とドキュメンタリーを交差させて描いた異色作。
深田晃司
映画監督
1980年生まれ。99年に映画美学校フィクションコースに入学。2005年、平田オリザが主宰する劇団「青年団」に演出部として入団。2010年、『歓待』が東京国際映画祭日本映画「ある視点」作品賞、プチョン国際映画祭最優秀アジア映画賞受賞。2016年『淵に立つ』でカンヌ国際映画祭「ある視点」部門審査員賞受賞ほか多数の賞を受賞。2018年フランス芸術文化勲章「シュバリエ」受勲。昨年、初のコミック原作となる『本気のしるし 劇場版』がカンヌ国際映画祭オフィシャルセレクションに入選。最新作『LOVE LIFE』が2022年秋公開予定。
現代アートハウス入門 ネオクラシックをめぐる七夜 vol.2
2021年12月11日(土)-17日(金)
全国24館で実施
企画・運営:東風 企画協力・提供:ユーロスペース
協力・提供:アイ・ヴィー・シー/アンスティチュ・フランセ日本/グッチーズ・フリースクール/コミュニティシネマセンター/シネマテーク・インディアス/ノーム
文化庁「ARTS for the future!」補助対象事業
https://arthouse-guide.jp/