プレゼンテーション+ディスカッション「”映画祭”の時代」:②高崎映画祭
3月18日から2週間にわたり開催される、第36回高崎映画祭。
2022年11月に開催された「全国コミュニティシネマ会議2022イン盛岡」では、志尾睦子さんに、コロナ禍を経て2022年3月に2年ぶりに通常のかたちで開催された高崎映画祭を、オープニング映像で振り返りながら、高崎映画祭のこれまでのあゆみや、高崎というまちにおける映画祭の存在について、お話しいただきました。
高崎映画祭によって育まれる高崎の「映画文化」
全国コミュニティシネマ会議2022イン盛岡(2022年11月18日/岩手県公会堂)
プレゼンテーション+ディスカッション「”映画祭”の時代」より
志尾睦子(高崎映画祭プロデューサー/NPO法人たかさきコミュニティシネマ代表理事)
まず、最初に2022年3月に開催した第35回の高崎映画祭のオープニングで上映した映像を皆さんにご覧いただきたいと思います。2年ぶりに通常の形で映画祭を開催することができました。2年間お休みをしたけれどまたやり始める、再開にあたってこれまでのことを見直し、これからどう進んでいくのか意志表示をすべきだと思って、この映像をつくりました。きょう、皆さんにお伝えしたいことはほぼすべてこの映像の中に詰め込まれています。
群馬県高崎市は、東京から100キロほど離れた、古くから交通の要衝として栄えた町です。現在の人口は約37万人です。1987年に高崎映画祭が始まった頃は、東宝・東映・松竹系列の映画館が4館ありました。高崎映画祭では、当初から映画館も映画祭の会場にしていて、地元の映画館と市民団体が一緒に映画祭をやることが大切だと考えて始めたと聞いています。映画祭を始めた動機はいたってシンプルで「見たい映画を見る」ということ。映画祭の主催者である実行委員会は、地元の名士の方にも委員に入っていただいていますが、実質的な運営を行う事務局はボランティアスタッフで構成されています。これは35年間ずっと同じスタイルです。
高崎映画祭は「映画好きの市民のための、市民による映画祭」という形をずっと続けています。
オープニング映像で伝えたかったことが、そのままきょうのプレゼンテーションのテーマでもあります。
- 映画でその時代を語ることの大切さ
- 映画祭が持っている姿勢
- 高崎映画祭が地域に根付いた形で映画を届け続けていくこと
こういうことを再確認したいと思っています。
オープニング映像の冒頭には、ウクライナで戦争が始まってしまったことをうけて、映画『ひまわり』についての映像を入れました。高崎映画祭は3月下旬開催で、戦争が勃発した(2022年)2月中旬にはプログラムはほとんどすべて決まっていたのですが、やはり、映画祭にはそのときに起こった事態に対応してやらなければいけないことがある、映画を通して伝えられることがあるんじゃないかということで、急きょ『ひまわり』を上映することを決めて、売り上げをウクライナ支援に回すことにしました。そんなふうにフレキシブルにやりながら、映画好きの皆さんとともに映画を楽しむ場所を醸成していこうと考えています。
高崎映画祭のプログラム
高崎映画祭のコンセプトは、第1回の開催時から変化していません。
- 地方都市で観る機会の少ない良質な映画を上映すること
- 高崎映画祭の批評性を持ち、それを大切にすること
- 日本映画の発展と育成に寄与すること
その年に劇場公開された作品の中から、日本映画/外国映画ベストセレクションを選出し、日本映画に対しては授賞を行い、日本映画界の未来のために若手映画監督たちの新しき才能に注目する。それが高崎映画祭の上映コンセプトです。
映画祭のプログラムも多少の変遷はありますが、2022年は下記のプログラムを上映しました。
- 授賞作品(7作品)
- 日本映画ベストセレクション(6作品)/外国映画ベストセレクション
- 若手監督たちの現在(12作品)
- まちと映画(6作品)
- 特別招待(4作品)
- 特集:ジョージア映画祭(13作品)
高崎映画祭の授賞式
高崎映画祭は第1回のときから賞を授賞しています。賞の種類は多少変化していますが、現在は「最優秀作品賞」「最優秀監督賞」「最優秀主演俳優賞」「最優秀助演俳優賞」「最優秀新進俳優賞」「最優秀新人俳優賞」「新進監督グランプリ」という賞を設けています。授賞式には、授賞作品を作った方々、出演された俳優の方々にお越しいただいています。これが高崎映画祭の目玉と言いますか、一大イベントになっていて授賞式のチケットはすぐに完売になります。
映画にあまり興味のない方々も俳優さんや監督たちとのふれあいから映画に入っていただくのもいいんじゃないかということで始めた授賞式ですが、実は10回くらいまではゲストにはなかなか来ていただけませんでした。監督さんだけがいらっしゃるみたいな感じでしたが、15〜6回ぐらいから登壇される方が多くなって、現在では、どうしてもスケジュールが合わないという場合を除いて、ほとんどの受賞者に出席していただけるようになりました。
2019年に駅のそばに「高崎芸術劇場」という立派な複合文化施設ができて、今年(2022年)3月、初めてこの会場で授賞式を行うことができました。
2022年の受賞者
最優秀作品賞 | 濱口竜介監督 | 『偶然と想像』 |
最優秀監督賞 | 横浜聡子監督 | 『いとみち』 |
最優秀監督賞 | 春本雄二郎監督 | 『由宇子の天秤』 |
最優秀主演俳優賞 | 占部房子 | 『偶然と想像』 |
最優秀主演俳優賞 | 河井青葉 | 『偶然と想像』 |
最優秀主演俳優賞 | 西島秀俊 | 『ドライブ・マイ・カー』 |
最優秀助演俳優賞 | 三浦透子 | 『ドライブ・マイ・カー』 |
最優秀助演俳優賞 | 水原希子 | 『あのこは貴族』 |
最優秀助演俳優賞 | 岡田将生 | 『ドライブ・マイ・カー』 |
最優秀助演俳優賞 | 中島歩 | 『いとみち』/『偶然と想像』 |
最優秀新進俳優賞 | 片山友希 | 『茜色に焼かれる』 |
最優秀新進俳優賞 | 駒井蓮 | 『いとみち』 |
最優秀新進俳優賞 | 梅田誠弘 | 『由宇子の天秤』 |
最優秀新人俳優賞 | 河合優実 | 『由宇子の天秤』 |
最優秀新人俳優賞 | 和田庵 | 『茜色に焼かれる』 |
新進監督グランプリ | 三澤拓哉監督 | 『ある殺人、落葉のころに』 |
数字で見る高崎映画祭の変遷
第1回(1987)から35回(2022)までの高崎映画祭の開催期間、日数、作品数等を一覧にしました。
回 | 年 | 日数 | 作品数 | 年間 上映会回数 | 観客動員数 | 年間予算 |
---|---|---|---|---|---|---|
第1回 | 1987年 | 7日間 | 23作品 | 4回 | ||
第2回 | 1988年 | 8日間 | 29作品 | 4回 | ||
第3回 | 1989年 | 10日間 | 30作品 | 4回 | ||
第4回 | 1990年 | 8日間 | 19作品 | 4回 | ||
第5回 | 1991年 | 9日間 | 25作品 | 4回 | ||
第6回 | 1992年 | 9日間 | 22作品 | 4回 | ||
第7回 | 1993年 | 8日間 | 24作品 | 4回 | ||
第8回 | 1994年 | 8日間 | 32作品 | 4回 | ||
第9回 | 1995年 | 12日間 | 55作品 | 4回 | ||
第10回 | 1996年 | 13日間 | 64作品 | 10回 | ||
第11回 | 1997年 | 12日間 | 55作品 | 6回 | 18,000人 | 3,000万円 |
第12回 | 1998年 | 13日間 | 76作品 | 5回 | 20,000人 | 3,000万円 |
第13回 | 1999年 | 14日間 | 66作品 | 8回 | 18,000人 | 3,000万円 |
第14回 | 2000年 | 16日間 | 82作品 | 9回 | 17,000人 | 3,000万円 |
第15回 | 2001年 | 16日間 | 81作品 | 6回 | 17,000人 | 3,000万円 |
第16回 | 2002年 | 16日間 | 72作品 | 6回 | 16,000人 | 3,000万円 |
第17回 | 2003年 | 17日間 | 72作品 | 6回 | 14,000人 | 3,100万円 |
第18回 | 2004年 | 15日間 | 68作品 | 8回 | 14,000人 | 3,200万円 |
第19回 | 2005年 | 16日間 | 70作品 | 7回 | 12,000人 | 3,200万円 |
第20回 | 2006年 | 17日間 | 75作品 | 1回 | 10,000人 | 3,200万円 |
第21回 | 2007年 | 17日間 | 68作品 | 4回 | 11,000人 | 2,700万円 |
第22回 | 2008年 | 16日間 | 54作品 | 3回 | 11,000人 | 2,400万円 |
第23回 | 2009年 | 16日間 | 63作品 | 1回 | 10,000人 | 2,500万円 |
第24回 | 2010年 | 16日間 | 63作品 | 3回 | 10,000人 | 2,600万円 |
第25回 | 2011年 | 16日間 | 54作品 | 3回 | 4,000人 | 2,100万円 |
第26回 | 2012年 | 16日間 | 64作品 | 1回 | 8,000人 | 2,800万円 |
第27回 | 2013年 | 16日間 | 67作品 | 1回 | 10,000人 | 2,800万円 |
第28回 | 2014年 | 16日間 | 69作品 | 1回 | 10,000人 | 2,800万円 |
第29回 | 2015年 | 16日間 | 52作品 | 1回 | 10,000人 | 2,400万円 |
第30回 | 2016年 | 16日間 | 53作品 | 1回 | 10,000人 | 3,300万円 |
第31回 | 2017年 | 16日間 | 59作品 | 1回 | 10,000人 | 2,800万円 |
第32回 | 2018年 | 16日間 | 64作品 | 1回 | 10,000人 | 2,800万円 |
第33回 | 2019年 | 16日間 | 63作品 | 0回 | 10,000人 | 4,300万円 |
第34回 | 2020年 | 17日間 | 62作品 | 0回 | 12,000人 | 2,800万円 |
中止 | 2021年 | |||||
第35回 | 2022年 | 7日間 | 47作品 | 0回 | 5,000人 | 2,800万円 |
「年間上映会回数」というのは、映画祭以外に上映会をやった回数です。高崎映画祭は、毎年春に開催していますが、春に1回大きい映画祭をやるだけではなく、年間を通じて2か月に1回くらいのペースで上映会をやってきました。
映画祭の期間は、最初は1週間ぐらいでしたが、回を重ねるごとに日数も作品数も増えて、映画館をつくる2004年前後は、日数は17日間、上映本数は70本を越えていました。年間の上映回数も8回、9回を数えるようになっています。私は、1999年(13回)にはじめてボランティアスタッフとして参加したのですが、この頃が「高崎映画祭の黄金期」と言われていて、1998年には動員数が2万人を越えています。その後は徐々に動員数が下がっています。
大体20回(2006年)くらいまでは、年間予算は約3000万円で(人件費は含まれていません)、収入の内訳は、チケット売り上げ、協賛金、補助金。この3つが大体3分の1ずつ、これが理想だと教えられました。これがうまくいっていたのは、私が入った第13回くらいまでで、そこからどんどんバランスが崩れていきました。チケット収入が1000万円くらい入ればよいのですが、動員数が減るとチケット収入が減少して、バランスが崩れていったのです。
2004年に、映画祭のボランティアスタッフが中心になってNPO法人たかさきコミュニティシネマを設立し、ミニシアター「シネマテークたかさき」を開館しました。映画館の開館と共にチケット収入が激減し、群馬県と高崎市からの支援に加えて、国(芸術文化振興基金)の映画祭支援事業にも申請しようということになって、申請をして助成金を得ることができました。しかし、実際のところ、ボランティアスタッフで、会社で仕事をしながら補助金の申請や報告書の作成をやるのは本当に大変で、国への助成金の申請は5年ほどでやらなくなってしまいました。私から「もうできません」と当時の代表に直談判しました。「もうできないから規模を縮小してくれ」ということで、予算額を減らしながら「3分の1」の原則が崩れないようにやっていましたが、だんだん難しくなっていきました。そして、2008年に前代表の茂木正男が亡くなりました。
彼が亡くなって何が起こったか。いろいろありましたが、映画祭について言うと地元のスポンサーがどっと離れて協賛金が大幅に減少し、年間の上映回数を減らさざるを得ない状況に陥りました。映画祭として年間10回くらい上映を行っていた年もありますが、2008年頃からは3回ぐらいになり、県からの支援金もこの頃から減り始め、「毎年20%ずつ減額して30回を迎える年に終了します」と言われました。これは大変だということで高崎市に「県の補助金がなくなってしまうのでその分どうにかなりませんか」と相談をしたところ、群馬県とは逆に「30回もやってきたお祝いに支援金を増額しよう」と言っていただき、第30回(2016年)から支援金を大幅に増額していただきました。いまは高崎市の補助金で成り立っています。現在は、補助金が全収入の約55%を占めていて、補助金の割合が大きくなりすぎていると思っています。
高崎映画祭からNPO法人たかさきコミュニティシネマへ
高崎映画祭は、映画「祭」というぐらいですから、お祭りとしての位置付けがあります。一方で、それとは別に2ヶ月に1回ぐらい上映会をやってきたのは、祭りとは別に日常的に映画を届ける場が必要だろうという考え方があったからです。「東京で10本の映画が上映されていたとして、高崎で上映されているのはそのうちの2本だけ、20%に過ぎない。8本は東京に行かないと見られない。東京に行かないと見られないものを8本じゃなくて3本とか4本にしたくて映画祭をやっているんだ」と前代表から教えられたときにはとても驚きました。現在もその状況はあまり変わっていないかもしれません。日本で公開される作品の数が、この20年で2倍以上に増えていて、高崎映画祭で上映本数を増やしても、シネマテークたかさきで毎日上映していても、東京での公開作品をすべて上映することはできません。それでも、高崎映画祭がなくなってしまうと見られる映画の本数が減ってしまう。「日常的に映画を見る環境を担保することが観客を育てるということだ」と前代表が本当によく言っていました。「一般の人はテレビで宣伝されるような大作じゃないとわからない」とか言われるけれど「そうじゃない。多様な作品を見られるように、選択肢を広げたくて、高崎映画祭をやっているんだ」と。
高崎映画祭が培ってきた歴史を経て、祭りとは別に日常的に映画を届ける場所である映画館を作ろうという動きになりました。映画祭が始まった頃に市内にあった4つの映画館は2000年までにすべて無くなりました。全国各地で見られたシネマコンプレックスができて、地元の映画館はなくなっていくという流れです。全国一斉公開されるような映画はシネマコンプレックスで見ることができます。群馬県にも現在は7サイトのシネマコンプレックスがありますが、大体どこでも同じ作品をやっています。もっと多様な映画を見せるためには、映画祭も必要だし、日常的に映画を上映する映画館も必要だということで、高崎映画祭をやってきたボランティアスタッフが中心になって、2004年にNPO法人たかさきコミュニティシネマをつくり、「シネマテークたかさき」という映画館(ミニシアター)を開館しました。
映画祭を担うスタッフの大切さ
「映画に携わりたい」「映画に関わる仕事がしたい」と思っている人は東京に行くしかないという状況があります。NPO法人をつくった動機としては、映画に携わりたいという若者が、少しでも地元に残って仕事ができる場所をつくりたいということもありました。「シネマテークたかさき」を開館し、1スクリーンから2スクリーンにして運営が軌道に乗るまでには10年以上かかりました。おかげさまで、現在では「高崎フィルムコミッション」の運営やずっと閉館したままで建物だけが残っていた映画館「高崎電気館」の再生事業などもNPO法人たかさきコミュニティシネマに任せてもらえるようになり、若いスタッフを雇用することもできるようになりました。
高崎電気館は、私が高崎映画祭に初めて参加した頃は映画祭の上映会場のひとつでした。地元の映画館と公共ホール、両方を使うということの意味が当時はよくわかっていませんでしたが、いま考えるとすごいことだなと思います。
高崎映画祭は、足を運んでくださる観客の皆さんがいて、地域で映画祭を支えてくださる企業、そして高崎市という行政の支援があったからこそ35年間続けることができたわけですが、何よりも大切なのは高崎映画祭を続けてきたボランティアスタッフの存在だと思います。企画から運営、協賛企業集めもすべて自分たちでやろうというところからスタートしています。現在も、映画好きが集まって、いろんな映画を見て、多くの方に見せたいという思いでやり続けています。
35回をすぎて、この先どうしていくのか。とにかく映画祭は大事、残したいと思っています。それはなぜなのかと言われると、明確にちゃんとしたことは答えられないのですが、とにかくシンプルに、高崎映画祭に関わっていると楽しいよねとか、見に行くことが楽しいよね、出品することが楽しいよね、運営することも楽しいよねと感じてもらえることが大切だと思います。続けていくにときに、一緒にやろうとする人をつなぎとめられることが重要です。取り分け、マンパワーというか運営スタッフの大切さをつくづく感じていて、課題はそこだと思っています。
「土壌」でありたい
高崎映画祭を35年間続けてきて、ちょっとおこがましい言い方になりますが、観客を育てることもできたんじゃないか、それも映画祭を続けることができた背景にあるんじゃないかと感じます。シネマテークたかさきの経営は非常に厳しくて、コロナの影響もあってこの2年間は観客の数も減っています。高崎映画祭の開催日数も観客数もコロナ前の半分に減ってしまって「本当にやっていけるのかな」と思いますが、歩みを止めるとゼロになってしまうので、やり続けようと思っています。その厳しい状況を高崎市の行政の皆さんが理解してくださり、支援を続けてくださることには本当にありがたく思っています。映画祭や映画館に対して、これほど理解をしてくれる自治体はあまりないだろうと思います。やはり、高崎映画祭時代から35年、私たちが地域でやってきたことを評価していただいているのだなと感じます。
高崎市がそういう評価をしてくれる背景には、高崎市民の評価があると思います。高崎映画祭からコミュニティシネマたかさきにつながる人たちがやってきたことが、高崎市民に届いている、市民にとって、高崎映画祭やシネマテークたかさきが、高崎市にあることは悪いことじゃない、いいことだと思っていただけているのかなと思います。
これからどんな形でやっていけばいいのか、正直非常に悩ましいところではありますが、今年、半分に縮小しても映画祭を開催できたことに大きな喜びを覚えています。
私の理想としては、いつも「土」でありたい、「土壌」でありたいと思っています。そこに種を蒔く人たちが集まってくれる場所、そのためのふくよかな土のような映画祭というのが、抽象的なんですが、それが理想です。これからも頑張って続けていきたいと思っています。
以下、ディスカッションより
もっと「非日常」を!
高崎映画祭で「場の共有」という意味での非日常は作れると思いますが、単純にお越しいただいた方に滞留時間をどれだけとっていただけるかという考え方をすると、高崎の場合、新幹線で1時間で東京まで行けるので日帰りできるんです。山形国際ドキュメンタリー映画祭にはもう10回くらい行っていますが、山形は日帰りできませんからどっぷり映画祭に浸って非日常を過ごすことができます。映画を見るだけではなく、いろんな人に出会ったり、街並みを感じたり、映画と共にその場所の記憶が留められる感じがします。高崎はそういう意味では、日帰りで帰られてしまうことが課題だと思ってはいます。
プログラム・ディレクター制について
土田:
「映画のことを考えるしかない」という環境は日常生活ではないと思いますが、その中でもとりわけ非日常というものを作り出しているのは作品の魅力ですね。クリストフさんのお話の中でもプログラムが大切だというお話がありましたが、このプログラムをどのように決められているのかということに興味がありまして、志尾さんとのころは「ディレクター制」というのを入れているというお話がありました。高崎映画祭の授賞作品が発表されると多くのメディアにも取り上げられていて、映画にとってもいい宣伝になっているんじゃないかと思います。その賞も審査員を立てることなく、映画祭の中で決められているのですね。これはどうしてですか?
志尾:
映画祭そのものが、映画の好きな人たちが、自分たちがまず見たいものを上映するという欲求の中で始まっているということがあります。賞の授賞も、映画好きな人たちが「自分たちは、こういうふうに映画を見たら楽しいと思う」ということを伝えるために授賞作品を決めてみようかというところから始まっているので、映画祭に携わる人の中で、知識も豊富で、時代性や批評性というものを責任を持って語れる人たちがディレクターとなって、プログラムも決め、授賞作品を決めるというのが自然の流れだったのだと思います。 高崎で映画のことをやっていると自分たち自身の中に、東京で勉強したり経験を積んだりした人でないと映画のスペシャリストにはなれないんじゃないかというコンプレックスのようなものがあります。その一方で、「いや、自分たちにもできるはずだ」「自分たちでやってみたい」という気持ちもあって、そういうところから始まっていると思います。私も途中から入ったので「絶対にこうだ」とは言い切れませんが、前代表が亡くなって、自分がそういう役割を担うことになってみると、自分自身がどういう理由でこの作品を選んだのか、それを決めるまでの積み重ねみたいなことを「地方から発出する批評性」として提示したい、それを自分が担うことの面白さというのを感じます。だから、プログラミングにおける「ディレクター主義」は手放してはいけない、ずっとやり続けていきたいと思います。
土田:
選んだことの責任を引き受けるということを自覚して高崎という地域とかいわゆる一般市民とか、他におもねるのではなく、自分たちも批評的に考える、その批評性がお客さんにも届いてほしいということですよね。
志尾 睦子
高崎映画祭プロデューサー/NPO法人たかさきコミュニティシネマ代表理事
全国コミュニティシネマ会議イン盛岡(2022年11月18日/岩手県公会堂)
プレゼンテーション+ディスカッションⅠ「“映画祭”の時代」
-出演者
志尾睦子[シネマテークたかさき/高崎映画祭][基調プレゼンテーション]
高橋大[盛岡〈映画の力〉プロジェクト]
クリストフ・ポスティック[リュサス国際ドキュメンタリー映画祭プログラムディレクター]
宮崎しずか[アニメーション作家/ひろしまアニメーションシーズンアーティスティックディレクター]
司会:土田環[早稲田大学理工学部]
通訳:坂本安美[アンスティチュ・フランセ日本]