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上映作品『セザンヌ』(ストローブ=ユイレ|1989)
レクチャー:深田晃司(映画監督)
巡回上映「現代アートハウス入門 ドキュメンタリーの誘惑」(3)

REPORTS
2023年5月24日

「現代アートハウス入門」の第3弾として、2022年10月~12月に行われた巡回上映「現代アートハウス入門 ドキュメンタリーの誘惑」。
上映に合わせて行われた監督や研究者等々、多彩な講師陣によるトークの記録を連載します。

現代アートハウス入門 ドキュメンタリーの誘惑 (3)
『セザンヌ』(監督:ストローブ=ユイレ|1989年|フランス)
レクチャー:深田晃司(映画監督)

2022年12月4日 鳥取|ジグシアター

巡回上映「現代アートハウス入門 ドキュメンタリーの誘惑」、鳥取県湯梨浜町ジグシアターでは、ストローブ=ユイレ監督『セザンヌ』の上映に合わせて、アンケート『セザンヌ』をセレクトした映画監督・深田晃司さんがレクチャーを行いました。詩人ジョアシャン・ガスケによる評伝『セザンヌ』の朗読と、セザンヌの絵画やゆかりの土地の映像で構成された本作。制作を依頼した美術館のキュレーターから上映を拒否されたほど「難解」な作品を、いかに読み解けばいいのか。ジグシアターでのレクチャーの模様をお届けします。

ジグシアターに行ってみたくて

ストローブ=ユイレ監督による『セザンヌ』、上映時間は50分でしたが、「あっという間に終わった」という人は、おそらくいないんじゃないでしょうか(会場笑)。自分は、20年ほど前に東京の小さな映画館で『セザンヌ』を観ました。確かに50分がすごく長く感じられるタイプの作品ではありますが、退屈したかと言えばそんなことはなくて、すごく興奮しながら観たのを覚えています。

今回、「若く新しい観客」に向けてドキュメンタリーをセレクトしてほしいという依頼をいただいたので、若いときに観た作品で印象に残っているものを選ぼうと思いました。それで、5本のうちの1本に『セザンヌ』を挙げたら、こうして話をすることになってしまいました。観ての通り難解な内容なので、本作についてレクチャーするのは勇気がいります。美術やストローブ=ユイレを専門とされている方など、自分よりもよほど適任の方がいるはずなので、本来だったら断っていたと思います。だけど、今回は会場がジグシアターさんだと聞いて、この映画館に来たいという欲望に負けてお引き受けしました。想像以上に素敵な空間で、また、ストローブ=ユイレの作品にこれだけ多くの人が集まるのも、本当に素晴らしいことだと思います。

ジグシアターがある旧桜小学校(鳥取県湯梨浜町)

「スクリーンを観る」ことについて意識させられた作品

「ストローブ=ユイレ」という名前自体を今回初めて知った方もいるのではないかと思います。これはユニット名で、ジャン=マリー・ストローブと、ダニエル・ユイレというご夫婦が、デビュー作から二人で映画づくりをしています。妻のダニエル・ユイレが2006年に亡くなり、その後はジャン=マリー・ストローブがひとりで制作を続けていましたが、つい先ごろ、11月20日に亡くなりました。『セザンヌ』は、二人が精力的に映画をつくっていた時期の一本と言えると思います。

映画監督には、2種類のタイプ──ひとつは、映画が大好きで映画ばかり観ていて、好きな「映画」を追いかけて映画づくりを始める人と、「映画の現場でのモノづくり」が好きで映画づくりに関わりつづける人──がいると思っています。自分は明らかに前者で、大の映画好きである父の影響で中学3年生のときに映画を観はじめてから、比較的いろんな映画を観てきたつもりでした。

そうして20歳前後で映画学校に入り、映画を習いたてのころに『セザンヌ』を観たわけですが、それはもう衝撃的でした。50分の作品と言っても、カット数は10に満たないぐらい。ジャン・ルノワールの『ボヴァリー夫人』からの引用部分はカットが割られていますが、引用部をひとつのパートとすると、作品全体が限られた映像パーツのみで語られていて、そこに延々と言葉がかぶさってくる。それまで自分が「映画」だと思って観ていた作品に共通する「映画の文法」のようなものが根幹から揺さぶられ、「これが映画と言えるのか」と思いました。ただ、映画館にいる自分はただ、スクリーンを観続けるしかありません。「これが映画なのか」という困惑と「これが映画なのだ」という興奮の間で、『セザンヌ』は、「スクリーンを観る」体験とはなんなのかを強く意識させられた作品でした。

『セザンヌ』が突きつけるもの

大阪に「第七藝術劇場」というミニシアターがありますが、この映画館名は、映画が「第七芸術」と呼ばれたことに由来しています。リッチョット・カニュードというイタリア人の映画理論家が、1911年に発表した「第七芸術宣言」(1927年刊行『イメージの工場』所収)で、音楽・詩・舞踊を「時間芸術」、建築・彫刻・絵画を「空間芸術」とし、時間芸術と空間芸術を総合する新しい芸術=第七芸術として映画を定義したんです。私たちの感覚からすると、詩は時間芸術だろうかと疑問に感じますが、当時の詩は印刷されるよりも朗読されるものだったのではないかと思います。

でも、『セザンヌ』を観ていると、その分類さえも疑いたくなってしまいます。作中ではセザンヌの絵画がずっと映っていて、そこにセザンヌの言葉が重なり続ける。絵を観続ける行為を通して、芸術が簡単に、空間芸術/時間芸術と分けられるものではないと感じます。そもそも、こうしてひとつの絵画をじっと観ること自体、普段はあまりない体験で、これこそが本当に絵と向き合う時間なのかもしれないと思わされます。

それから映画の「編集」についても、『セザンヌ』は大変示唆的です。編集、つまりモンタージュは非常に創造的な行為であると同時に、観客を飽きさせないための手法でもあります。でも、観客を退屈させないために映像を切り替えたりアングルを変えたりすることが、本当に創造的と言えるでしょうか。「モンタージュは、ふたつの異物の衝突である」という言葉がありますが、本作では、セザンヌの絵画とセザンヌが見ていたであろう風景、ジャン・ルノワールの『ボヴァリー夫人』、ストローブ=ユイレ自身の『エンペドクレスの死』が、なんの説明もなく、ひとつの映画の中で乱暴に衝突させられています。観客を退屈させないためのモンタージュとは全く逆の方向ですが、モンタージュの持つ原初的な価値を突きつけられている気がして、すごく面白いと思いました。

© Straub-Huillet / BELVA Film

映画における映像と音声

それと、忘れてはならないのが怒涛の朗読です。映画を論ずる際に「映画なんだから映像で語らないとダメだ」とか、「映画はもともとサイレントだったから、言葉で説明してはいけない」といった語られ方をしがちですが、そうした指摘を見かけると自分はモヤッとします。もちろんそこにもひとつの真理があるのですが、一方で映画における音声を映像の従属物に貶めかねない危うさがあります。映画が発明された19世紀末の段階で、写真から連続写真、映像へと進化していった「映画」はそもそも音を持たない環境から生まれた芸術であり、音を選択的に「欠落」させていたわけではないと考えています。

朗読されている文章は、詩人のジョアシャン・ガスケによるセザンヌの評伝がもとになっています。ガスケはセザンヌの幼馴染の息子で、晩年のセザンヌとも交流がありましたが、評伝が出たのはセザンヌが亡くなったあとです。ですから、本書に書き留められたセザンヌの言葉や考え方は、かなりの部分が文学的に創作されたものではないかとも言われています。セザンヌという男性画家の言葉を、女性のダニエル・ユイレが朗読している点も、ストローブ=ユイレが原典の虚構性を意識していたことがうかがえるようで面白いです。

映画をつくろうとすると、物語を物語るために映像や言葉を使ってしまいがちですが、『セザンヌ』は「映像そのもの」「言葉そのもの」がモチーフになっています。セザンヌが語ったであろう絵画論と、映像で示されるセザンヌの絵画やセザンヌの見た景色が、どちらかに従属するものではなく、独立したふたつの主題として観客に示されている。映像と音声の衝突によって観客のなかで化学反応が誘発されるような体験で、20歳当時の自分にとっては大変刺激的でした。

© Straub-Huillet / BELVA Film

『セザンヌ』が持つ19世紀への意識

では、なぜ『セザンヌ』が物語を物語るところから外れてなお刺激的なのかについて、考えてみたいと思います。ここから先はほぼ自分の妄想ですが、自分が本作で強く感じたのは、19世紀への意識です。映画が誕生したのは19世紀末ですが、ある日突然発明されたわけではなく、その前身に写真の存在がありました。

私たちが生まれた瞬間から死に向かっているように、人も自然もすべては移ろっていきます。その瞬間を描き留める手段として絵画があり、写実的な技法の発展が西洋絵画の歴史でもありました。しかし、写真の登場によって、絵画に求められていた「写実的に描く」役割が写真に取って代わられたわけです。それはつまり、写真や連続写真、映像の誕生によって、目の前のものをリアルに記録するという実利的な労務から絵画が解放されたとも言えるでしょう。それゆえに、絵画は新たな表現形式を手に入れて今日まで発展してきました。

実際に、印象派という表現形式や世界の見方は、写真の登場に後押しされて生まれてきたものです。第一回目の印象派展が写真家ナダールのアトリエで行われたと言うのは象徴的です。一方で、絵画に代わってその役割を担うことになった写真や映像は、ややもすると現実をよどみなく記録することに文法が傾いてしまったのではないか。20世紀に発展した技術である「カメラ」で、印象派の画家・セザンヌの絵画を凝視し、セザンヌの絵画論を滔々と語る本作は、ある意味で倒錯的とも言えます。『セザンヌ』は、現実をわかりやすく伝えることにエネルギーを注いでいる映画やドラマが持つ退屈さの正体を突きつけると同時に、19世紀以前から存在した演劇、文学、絵画の歴史の蓄積に対して、映画は十分に敬意を持ち得ているかという問いをも投げかけているように感じます。総じて『セザンヌ』は、その倒錯的な表現によって、「映画とは何か」ということを逆説的に突きつけている作品だと思います。

映画がつくられる下部構造」-製作体制と強く関係する表現

もうひとつ、『セザンヌ』を再見して強く感じたのは、こうした実験的な映画表現を考えるにあたって「映画がつくられる下部構造」を意識しなくてはいけないということです。『セザンヌ』は、物語らしい物語がなく、画もほとんど変わらず、ナレーションも非常にわかりづらい。とにかく説明がありません。多くの人はおそらく、このわかりにくさを、ストローブ=ユイレの作家性として理解し、『セザンヌ』を商業性の低いアート映画と受けとめます。しかし、あらゆる表現は社会的な活動なので、表現のすべてを作家の筆致、芸術性やインスピレーションのみに還元することはできません。ここに一枚の絵画があるとして、材料の絵の具がどのように購入されたのか、その絵の具がどうやって作られたのか、誰から依頼されて描いた絵なのか。そうしたことはすべて表現の本質に関わることだと思っています。

なかでも映画は、表現と製作体制が強く関係しています。なぜなら、映画をつくるのには他の表現分野と比較しても大きなお金がかかるからです。自分が日本でつくる映画も、製作費は5千万円から1億円程度はかかっています。それでも、世界的には「低予算映画」と言われます。海外の場合、映画中で爆発も起きない、アクションもない、シネコンではなくミニシアターで上映されるような「小さな映画」でも、劇映画であれば1.5億〜3億円ぐらい、ドキュメンタリー映画でも数千万円の製作費がかかっていると言われます。ただ、映画をつくるのに数億円かかるとなると、そこには大きな経済的リスクが生じます。リスクを解消するためには、商業的には多くの人に観てもらう必要があるので、人気の俳優を出すとか、みんなが共感できるわかりやすい物語にするとか、有名な原作をベースにするといった選択をせざるを得ないんですね。つまり、経済的リスクの高さがクリエイティブな部分に強く影響するのが映画という表現です。映画はそうした宿命を抱えながら、商業性・娯楽性と芸術性・作家性のせめぎあいのなかで、多様な表現を成立させてきました。

では、製作費をどう集めるかと言うと、大まかに言って3種類の方法があります。ひとつは、映画会社がビジネスとしてお金(出資)を集める方法。これが一番スタンダードな手法です。でも、それだけでは市場の原理が強く働いて商業性の低い作品はつくりづらく、表現の幅が狭まってしまいます。そこで、2つめの方法として、助成金で製作する方法があります。リクープ(回収)しなくていい、経済的リスクの少ないお金を集めるわけです。3つめの方法は、民間からの寄付です。映画製作のお金の集め方は、大体この3つの方法のパッチワークで成り立っています。娯楽性の高いエンタメ映画の予算は大半が出資になるし、アート性の高い映画になればなるほど、公的な助成の割合が増えます。フランスは公的な助成金が多く、アメリカは民間の寄付が多いですが、日本は助成も寄付も少ないため、資金集めには大変苦労します。

前置きが長くなりましたが、『セザンヌ』はいわゆる商業映画のシステムにおいてはまず成り立たない映画です。実際、『セザンヌ』はオルセー美術館から制作依頼を受けてつくられた作品であり、一般的な商業性の高い映画の製作や流通のフォーマットとは全く異なった背景、資金の在り方を持つことは、この作品の美学的な選択のひとつひとつを支える下部構造として忘れてはなりません。映画作家の手腕は作品の経済性とどう向き合い、自作に見あった製作環境を手にするかというところからすでに始まっているとも言えます。さらに言えば、そうした下部構造にも関わらず完成後に美術館から上映を拒否されたという「逸話」は、真偽のほどはともかくとして、この作品の規格外のラディカルさを証明しているようです。

© Straub-Huillet / BELVA Film

質疑応答

——『セザンヌ』は定点の画が多いと感じましたが、映画の始まり方と終わり方を含め、深田監督は本作をどのように咀嚼されましたか。

深田 本作のなかで、「画家の視点を持つ」というセザンヌの言葉があったと思いますが、映画にとって「画家の目線」は、非常に重要なものだと考えています。それは単に、絵画的な美しい画面をつくるとか、色彩豊かな画面をつくることではなく、いかに真摯にモチーフに向き合うかということだと思っています。映画は、観客の共感を得ながら、よどみなく物語を物語るために、モンタージュやカメラワークの技術を発展させてきました。それはそれで素晴らしいし、そうした技術を駆使した面白い作品もたくさんつくられています。

ただ、先ほど述べたように、写真の登場によって印象派という表現が生まれ、絵画がモチーフとの向き合い方を突き詰めていったのに対して、映画はもしかしたらそこが弱くなっていったのではないか。つまり、映像はいとも簡単に世界を模写できてしまうがゆえに、モチーフに対峙する緊張感を失っていったのではないかと思うんです。ストローブ=ユイレの作品は、モチーフに対して不純物なくカメラを向き合わせているのが非常に気持いいと感じます。下手にカメラをアオリにしたり、飽きさせないための工夫をすればするほど、モチーフとカメラの関係が濁っていくとストローブ=ユイレは考えていたんじゃないでしょうか。これはあくまで私の勝手な妄想ですが、少なくとも自分が映画をつくるときもそうありたいと願いながらカメラ位置を決めています。

——隣県に住んでいる者ですが、この場所にジグシアターがあるのが嬉しいです。劇場のコンセプトが「『戸惑い』を案内する映画館」というのも面白いと思っています。深田監督の作品を拝見したときにも戸惑いを感じたことがあるのですが、観客が戸惑うことを意図してつくられているのでしょうか。

深田 あえて困惑させようとしているわけではないですが、困惑させてしまうことをもいとわないとは思っています。少なくとも自分が映画を観るときに、登場人物に共感できるかどうかはまったく重要ではありません。自分がつくる映画は、現実にある人間関係の距離感や、他者という存在が、できるだけ正直に反映されたものにしたいと思っています。それはつまり「人の心は分からない」ということです。人は理解し得ない他者のことを理解しようと想像しながら生きていくしかありません。

 生きていれば、腑に落ちない行動をとる人は山程いますよね。だからこそいろんな事件が起きるし、「なぜこの人はこんなことを言うんだろう」と思うこともあります。自分の映画においても、観客の皆さんには、登場人物に対して現実と同様の距離感を持ってほしいと思っています。映画に出てくる人が何を考えているかはわからないけど、想像しながら向き合うしかない、というふうに。だから、人によっては、登場人物の行動が腑に落ちないと思うかもしれないけど、それはそれでいいかなと思ってつくっています。

——深田監督が影響を受けた絵画や写真作品があれば教えてください。

深田 絵画で一番好きなのはドガです。踊り子の絵もいいですが、街中にいる人のちょっとした仕草を描いた絵が最高です。人間の一瞬の姿を捉えただけで作品世界が成立しています。映画が2時間かけてやっていることを1枚の絵で示してしまう絵画は本当にすごいし、大好きです。

——今回の企画には「ドキュメンタリーの誘惑」という副題がついていますが、『セザンヌ』をドキュメンタリー作品として選ばれた理由を教えてください。

深田 そもそも映画は、何がドキュメンタリーで何がフィクションか、簡単に区別できない表現だと思っています。リュミエールが最初につくった『工場の出口』も、多くの解説書でドキュメンタリーのように説明されがちですが、当時の撮影環境を思えば、工場から帰っていく従業員たちはほぼ「仕込み」に間違いないと私は思っています。映画のはじまりが、ドキュメンタリーのようなフィクションだったのは、実は重要なことだと思っています。『セザンヌ』は、景色や絵画、ガシュケの言葉を引用している点で、コラージュ的なドキュメンタリーと言えると思いますが、カメラの前にある何かを撮るという原理は、ドキュメンタリーもフィクションも変わりません。ジョン・カサヴェテスのフィクションにはドキュメンタリーの手触りが、フレデリック・ワイズマンのドキュメンタリーにはフィクションのような手触りがある。映画にはそういった面白さがあると思っています。

ジグシアターの三宅優子さん(左)、柴田修兵さん(右)と深田晃司監督(中)

(構成=木村奈緒)


セザンヌ』

原題:Cézanne

監督:ジャン=マリー・ストローブ、ダニエル・ユイレ|1989年|フランス|50分

詩人ジョアシャン・ガスケによる評伝「セザンヌ」に記された空想的な対話の朗読に重ねて、セザンヌゆかりの土地やセザンヌの絵画が映し出される。実物の絵画を直接撮影している点では記録映画であり、ガスケによって虚構化されたセザンヌという人物の言葉を劇的に再虚構化している点では劇映画にも近い。ポール・セザンヌの過激な絵画観に、過激な映画作家ストローブ=ユイレが肉迫する。

© Straub-Huillet / BELVA Film

深田晃司 ふかだ・こうじ

1980年生まれ。2013年『ほとりの朔子』がナント三大陸映画祭グランプリ「金の気球賞」と若い審査員賞をW受賞。2016年『淵に立つ』がカンヌ国際映画祭「ある視点」部門審査員賞を受賞。2018年、フランス芸術文化勲章「シュバリエ」受勲。そのほか主な劇場公開作に『よこがお』(19)『本気のしるし〈劇場版〉』(20)など。最新作は『LOVE LIFE』(22)。

現代アートハウス入門
「現代アートハウス入門」は、若い世代に〈アートハウス〉(ミニシアター)の魅力を伝えようと、2021年にはじめられた企画。第1~2弾 連続講座「現代アートハウス入門 ネオクラシックをめぐる七夜」では、〈アートハウス〉の歴史を彩ってきた傑作を「ネオクラシック(新しい古典)」と呼び、東京・ユーロスペースを拠点に全国の映画館で、7夜連続日替わりで上映。気鋭の映画作家が講師として登壇、各作品の魅力を解説。
2022年秋~冬に行われた第3弾、巡回上映「現代アートハウス入門 ドキュメンタリーの誘惑」では“ドキュメンタリーと呼ばれる方法で作られた映画”にフォーカスし、18名の気鋭の映画作家に「若く新しい観客に映画の魅力を伝えるために5本の“ドキュメンタリー映画”を観せるとしたら、どんな作品をセレクトしますか」というアンケートを実施。その結果をもとに以下の7作品を巡回上映した。

巡回上映「現代アートハウス入門 ドキュメンタリーの誘惑」上映作品
ルイジアナ物語 監督:ロバート・フラハティ|1948年|アメリカ|78分
人間ピラミッド 監督:ジャン・ルーシュ|1961年|フランス|90分
1000年刻みの日時計 牧野村物語 監督:小川紳介|1986年|日本|222分
セザンヌ 監督:ジャン=マリー・ストローブ、ダニエル・ユイレ|1989年|フランス|50分
書かれた顔 監督:ダニエル・シュミット|1995年|スイス、日本|89分
SELF AND OTHERS 監督:佐藤真|2000年|日本|53分
物語る私たち 監督:サラ・ポーリー|2012年|カナダ|108分

現代アートハウス入門ウェブサイト https://arthouse-guide.jp/ 

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